こんにちは。
観劇三昧OLです。
今回は、宝塚歌劇に関する書籍を多数出版されている中本千晶さんの著作から、
『宝塚歌劇は「愛」をどう描いてきたか』という本で書かれていることを、fffに当てはめて考えていこう!という内容です。
本の内容にも少し触れますが、基本的には私の考察メインでいくので、詳しい内容が気になる方はこちらをどうぞ〜
それでは、
レッツゴー!
※以下、ネタバレを含みます。
「タカラヅカ流・愛の方程式」とは
『宝塚は「愛」をどう描いてきたか』では、宝塚歌劇が上演する全ての演目に共通してるであろう「男女の愛の描かれ方」のパターンを「タカラヅカ流・愛の方程式」と呼んでいます。
ざっくりと解説すると、
出会い+障壁=悲しい結末、時々ハッピーエンド
これが、「タカラヅカ流・愛の方程式」となります。
『ロミオとジュリエット』で例えると、
ロミオとジュリエットは舞踏会で運命の出会いを果たす=出会い
キャピュレット家とモンタギュー家は争っている=障壁
神父様からの伝達がうまくいかず、2人とも死亡=悲しい結末
となるわけです。
この方程式は宝塚歌劇のほぼ全ての作品に見られますが、時代の移り変わり、現実の社会の恋愛観の移り変わりとともに、中身の「愛」の描かれ方が変わってきますよ~~~
ということが、『宝塚歌劇は「愛」をどう描いてきたか』では語られていきます。
結婚をゴールとする恋愛、プロセスを大切にする恋愛、男女間でなく男同士の友情・・・。
宝塚歌劇がこれまで描いてきた、沢山の「愛」のかたちが紹介されています。
私はfffを観劇した後にこの本を読んだので、ふと思いました。
「fffという作品は、今まで通りの「愛」を描いた作品なのか・・・?」
次章では、実際に「タカラヅカ流・愛の方程式」にfffを当てはめて、この作品ではどのような「愛」が描かれているのかを考えていこうと思います。
fffに当てはめてみる
出会い+障壁=悲しい結末、時々ハッピーエンド
この「タカラヅカ流・愛の方程式」にfffを当てはめてみます。
出会い
少年時代のルートヴィヒが選候帝に逆らい、父親を逆上させ家に入れてもらえなかったときに謎の女に声をかけられる。(謎の女の存在を認知したのはこの時を思い出している大人のルートヴィヒ)。
障壁
メッテルニヒに耳が聞こえないことを公表すると脅され、謎の女はイギリスに逃げることを提案する。ルートヴィヒは謎の女を疫病神と蔑み、謎の女は去っていく。
ハッピーエンド
ルートヴィヒは人類の不幸(=「運命」)を愛し、抱きしめる。人生の最後に「歓喜の歌」を作り上げ、歌う。
謎の女は人間ではないので当てはめるのが難しいですが、今回は下記のように定義しています。
出会いは、まさしく2人が初めて声を交わしたであろう場面。
障壁は、謎の女がルートヴィヒから去った場面。この2人ちょこちょこ揉めてましたが、謎の女が心から傷ついてルートヴィヒと離れたのはここだけのような気がします。
また、謎の女が去った後のコンサートの場面で、耳が聞こえないことを公表され、別の作曲家のコンサートになってもなお無理やり指揮を振り、やがて観客が去ってしまう部分も、彼の音楽を誰も求めなくなった瞬間なのでルートヴィヒの人生にとっての障壁かもしれません。
(まあルートヴィヒの人生、いろんな障壁だらけなんですけどね。)
最後は謎の女を幸せそうに抱きしめ、全員で歓喜の歌を歌うのでハッピーエンド。
ルサンク掲載の脚本は、第9の作曲場面で、
謎の女→運命の恋人
衣装を変えて再登場の場面で
運命の恋人→恋人
へと、お役の表記が変化しています。
退団公演でようやくハッピーエンドのストーリー。めでたしめでたし。
…ではありますが、ここで問題なのは「恋人」もとい謎の女が、人類の不幸という概念だということです。
人類の不幸と出会い、障壁を乗り越えて結ばれるという物語は、一体どのような「愛」を描いているのか、次の章で考えていきます。
上田久美子先生が描く新しい「愛」のかたち
希帆ちゃんのお役が人間なら、いつも寄り添ってくれていた人とようやく結ばれてめでたしめでたし。
という、平凡で幸せな男女間の愛になります。
ただし、謎の女の正体は「人類の不幸」。
誰しもの人生に存在する、概念のような存在です。
不幸を愛するとはどういうことなのか。
ルートヴィヒは不幸の名前を「運命」だと言いました。
不幸を愛するとは、
自分の運命を受け入れる、つまり
自分の人生を愛し、自分自身を慈しむ
こういうことなのかもしれません。
この作品で描かれている「愛」は、自分自身に向けてのものです。
昨今、SNSの発達により、常に他者からの評価が「見える化」されました。
いいねの数、フォロワーの数、コメントの数…。
気軽に自分の意見を発信でき、簡単に他者からの反応を得られます。
その分、反応が得られなかったり、批判や中傷が殺到すると
自分の意見は認められないのか、自分の声は聞こえていないのか。
もう自分の傍には誰もいない。
そう思ってしまう人がいることも事実です。
まあそこまではいかずとも、いいねたくさん欲しいな、バズってみたいな。
SNSを普段から使っている人は、誰しもそんなことを思ったことがあると思います。
他人の目、他人の声ばかりを気にする。
そんな事しなくても、自分で自分を認めて、愛してみたら、
歓喜の歌が聞こえてくる―。
fffで描かれた「愛」は、自分を大切にするということなのだと思います。
やはり宝塚歌劇団というところは、
「タカラヅカ流・愛の方程式」が生まれるくらい、自分ではない他者(大半が男女間)を愛するという展開が多いです。
概念を愛するというと、『エリザベート』が1番に思いつきますが、宝塚版ではトートは「黄泉の帝王」と名付けられ、ひとりの人間のようなものとして存在が与えられています。(本家ウィーンや東宝版の話をすると終わらないのでそれはまたの機会に…。)
そんな中、自己を慈しむという「愛」を描いた演出家は今まであまりいなかったのではないでしょうか。
自分の価値を他人の評価で測ることが容易になったこの令和の時代に、自己への愛を描き上演する。
宝塚歌劇は、時代の変化とともにまたひとつ、新しい「愛」のかたちを描くことに成功したと私は思います。
おわりに
いかがだったでしょうか!
とりとめのない文章になりましたが、要するにもっと自分愛していこうぜ!そしたらハッピーだぜ!いえい!!
ってことです。
最後に、参考にした書籍の作者さんについてですが、
中本千晶さんは宝塚歌劇に関する書籍を多数出版されており、これがどれも面白い。
特に、『ヅカファン道』は、ヅカファンの皆様なら、大きく頷き時にニヤニヤしながら読めること間違いなしです。
劇場に行く日は思い切り楽しみ、
行かない日はおうちでこんな本を読むのも楽しいですよ〜〜!
それでは、
おあとがよろしいようで。
参考文献
・中本千晶『宝塚歌劇は「愛」をどう描いてきたか』東京堂出版、2015年
・『宝塚ステージ写真集 ル・サンクvol.212』通巻371号 宝塚クリエイティブアーツ、2021年
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